こだわりが過ぎるということ(その2)

 世の中にはこだわり屋がたくさんいるものだ。前回は「あまりこだわりが過ぎない方がいい」と書いたが、自分を毅然と持って道具にこだわり続けている人には、少しあこがれる部分もある。
 ただ、あこがれを持てないこだわり屋もいる。
 某道具こだわり系のページのことだが、そこの作者氏は、こだわってこだわって欲しい質を満たした製品を探し出し、購入している。そのこと自体はたいしたものだ。しかし、その過程で出会った店の姿勢、店員の質、その他の業界事情に対して、どうも辛口というか辛辣な感想を、皮肉な文調で書いていることがある。辛辣な感想はともかく、読んでいてひっかかる文の調子はどうかと思う。あるいは自分が求める「製品の売り方」をよく提示している。メーカーや販売店にとても緻密な取扱いを求めるものだ。しかし、僕などはそれを読んで「そんな売り方していたらコストがかかってしょうがない。翻って消費者にも益しない。」と思う。そもそも「そんな神経質な製品の作り方・売り方を求める消費者はごく少数なのではないか」とも思う。さらには、その道具を巡るちょっとしたブームに対しても否定的な目で感想・意見を書いているが、やはり読んでいてどうにもひっかかる。
 なぜ引っかかるのだろう。考えてみると、引っかかる部分はこの人が自分個人の感覚を基準にして否定的な意見を書いている部分だ。いや、別に自分個人の感覚で物を言うことが悪いわけではない。ただ、書き方に大きく疑問を感じる。つまり、あたかも自分のこだわりレベルや工業製品への考え方・こだわりが、一般の普遍的な意見であるかのような思いこみが感じられる文章なのだ。そこで興ざめしてしまう。この人は自分のことを神経質と評しているが、きっと自分でそう思っているよりもはるかに神経質の度合いが高いのではないかと思う。
 またあるところで間接的に聞いた(読んだ)ところでは、道具を整備してくれる人に対して「ダメ出し」が厳しい人もいるそうだ。その伝聞そのものは、書いた当の整備者が切磋琢磨の機会として楽しんでいる感もあったが、別の場所ではさぞ煙たがられたろうと推測される部分もある。
 このような人たちは、僕のように疲れを感じたりせず、こだわりを楽しんでいるのだろう。そのこと自体はうらやましい気もする。しかし、周囲の人が迷惑していそうな部分はイヤだな。僕はそこまでしてこだわりを貫きたくはない。もちろんそう簡単にこだわりを捨てられるわけはないし、そもそも完全に捨てようなんて思ってはいない(笑)。ただ、道具へのこだわり(自分の欲求)と人や社会との関係(社会性)の優先順位はちゃんとつけておきたいものだ。