ある日のこと

 仕事中、万年筆を使って紙にあれこれ書き込みつつ思索していた時のこと。
 とある若者がやってきて、僕に仕事上の問い合わせをした。僕はそれに答え、相手に伝えたという記録を残すために「ここに名前を書いておいて」と、紙とその時使っていた万年筆を渡した。
 一瞬ためらいを感じはしたのだ。でも待たせるのを忌避する気持ちが勝り、すぐに筆記具を渡したかった。それ故、手持ちの万年筆を貸したわけだ。が。
 グギギギギッギ!ギシギシギシ!!
と、僕の耳には聞こえた。事務用機器の少しざらついたプラスティックの上で、1枚紙に、ものすごい筆圧で名前を書き込むその若者。
 気持ちは「うわ〜〜!」と叫んで、その手をひっつかんで行動を止めたかった。が、青ざめたまま(多分本当に青ざめていた)、動けない僕の体。書き終えて、紙と万年筆を返してもらうまでの時間が、永遠にも思えた。
 …幸い、本当に幸い、ペン先に支障は出なかったようだ。
 その若者も、いきなり高級っぽい万年筆を渡されて、一瞬戸惑った目をした。万年筆なんか使ったことがなかったのだろう。使ったことない筆記具でしっかりと書くために、いつも以上の筆圧になってしまったのかもしれない。いずれにせよ、その若者に非はない。
 近年の万年筆のペン先がいわゆるヴィンテージに比べて非常に固いのは、無理もないと思った。僕がその時渡した万年筆も丈夫なペン先をしている。そのおかげで支障が出なかったのだろう。
 でも精神衛生上、これほど悪いことはない。もう二度と他人に貸すことはないだろう…。